川路聖謨は、江戸幕府や奈良奉行に務めたお役人。
学問に精進し、民の信頼厚く、貧しい下級武士から異例の昇進を果たし、異国とも果敢に交渉し、幕末には薩長と江戸幕府の停戦のために切腹 と、波乱万丈な人生を送っています。
奈良公園五十二階段を登り切ったところには、川路聖謨が奈良に桜の木を植林したときの川路の自筆を引用して湛える碑(2枚目の写真)と、それを現代語で解説する碑(3枚目の写真)が設置されています。
【生い立ちから晩年まで】(書籍:川路聖謨と異国船時代より)
1801 川路聖謨が豊後国で内藤吉兵衛の子として誕生する。 このときの名前は「弥吉」。
1804 弥吉は母親に連れられて江戸に引っ越す。 父吉兵衛は先に江戸に単身赴任していた。 このとき、ロシアからの使節であるレザノフが、長崎に来て日本との交易を求めている。(後に否決される)
1806 父吉兵衛が、幕府の西の丸お従士に採用される。
1809 弥吉が吉兵衛から、学問の手ほどきを受ける。
1812 弥吉が、川路三左衛門(小普請組の旗本)の養子に入る。
1813 元服して、名を萬福(かずとみ)とする。
1813 川路三左衛門が隠居する。これに伴い、弥吉が川路の家督を継ぐ。(当時13歳)柳生新陰流の剣術をはじめる。(後に免許皆伝)
1817 弥吉が御勘定所の筆算吟味に合格する。当時17歳前後?
1818 弥吉が支配勘定出役になる。
1821 弥一が支配勘定へ昇格する。
1823 弥吉が評定所留役に昇進する。
1825 江戸幕府が異国船打ち払い令を出す。
1826 弥吉は酒井良祐の門徒になり、直神影流を体得。
1827 弥吉が神社奉行吟味物調役に昇進する
1831 大きな萬屋である高田屋の船永徳丸がロシア船と不審な遭遇をして松前藩からお咎めを受ける。
1846 奈良奉行へ左遷されてしまう。
1851 大阪東町奉行へ異動。
1852 勘定奉行へ異動。
1853 弥吉が勝手方御勘定奉行の任につき、全権として長崎にてロシアのプチャーチンと会談。このとき、「左衛門」と名乗っている。この年、ペリーも日本へ来航。
1854 左衛門(弥吉)が下田でプチャーチンと日露和親条約を締結。
1868 官軍と江戸幕府が停戦し、官軍が江戸城に入場する日に、左衛門が切腹。 消滅する江戸幕府と運命を共にする。
明治維新後、従四位の位階を送られる。
【植櫻楓之碑】
幕末の弥化二年(1846)から嘉永四年(1851)までの五年間奈良奉行を務めた川路聖謨はその識見と善政によって住民から深く敬愛された。
この碑(写真2枚目)はその一端、彼の呼びかけで桜と楓の苗木数千株を東大寺・興福寺両寺を中心に南は白毫寺西は佐保川堤まで植樹したときの記念碑である。多くの苗木を寄付した奈良の住民たちの自然景観への愛着と配慮、また構成の人に補植を呼びかけたその先見の鋭さは奈良公園愛護の教訓として敬服のほかない。
なお彼は大坂町奉行 外国奉行等幕閣に重きをなし慶応4年3月15日(1868明治元年)江戸落城の報に自尽して幕政に殉じた。
【川路聖謨が吉野山にて詠んだ詩】
「美興之野(みよしの)の 花をばいかで筆にのべ 辭(ことば)にかくと いひつくす無き」 聖謨
春の吉野山に桜を見に行ったとき、言葉で言い表せないほどきれいだったのでしょうか。
【参考文献】
・「川路聖謨と異国船時代」 - 渋谿 いそみ - 国書刊行会 2001年
・奈良公園 「植櫻楓之碑」 - 五十二階段の上
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